ふめつのこころ

蜂さに♂(ネームレス)
アロマンティックの審神者と審神者のことが好きな蜂須賀虎徹が、愛について考える話です。

モブ→審神者のマイクロアグレッションの描写があります。
この話では積極的にラベリングしていますが、恋愛的指向はすべて個人によるものであり、アロマンティックの自認で包括される人々の指向はこの話の描写の限りではありません。

 

(本丸に来る前も、別に花なんか好きじゃなかった)
 庭には梅の花が咲いている、その爛漫とした美しさにかえって不気味さを感じて、審神者は自分が作られた箱庭の中にいることを改めて感じた。この本丸というのはきっと戦争のためにこしらえられた小さなディストピアなんだと、帰還した刀剣男士を見て思っていた。
「主、骨喰にいさんが中傷なんだよっ、」
 ポシェットを弾ませていの一番に戻ってきた包丁藤四郎に袖を引かれて、我に返る。少し遅れて骨喰藤四郎が肩を貸されながら歩いてくるのが見えて駆け寄ろうとしたが、すくんでしまった足は二、三歩しか動かせなかった。
 濃紺の戦闘服は血を吸ってより濃く色を変えている。腱が切れたのか左腕が脱力して垂れ下がっていて、止血のためにシャツか何かだった布が巻かれている。返り血と擦り傷で髪の毛が頬に張り付いて赤黒く固まっていて、いつものギムナジウムの美少年然とした雰囲気は苛烈な戦の面影に塗りつぶされていた。
「今、手入れを……」
 審神者がやっと言えたのはそれだけで、足を大げさに動かして縁側から手入れ部屋に続く障子を開けて待ちながら大丈夫かとかお疲れさまとか、言い淀んで言えなかった言葉が泡のように浮かんで上ってゆく。背を支えてローファーを脱がしてやると鉄の匂いがいっそう強く感じられた。
「蜂須賀、他に手入れが必要な男士は」
「大丈夫だ。まずは彼を見てくれ」
 先程まで身を屈めて肩を貸していた隊長も血で汚れているが、怪我はないようだ。
「みんな、骨喰はおれに任せて、手入れが終わったら蜂須賀から報告を聞くだけだから休んでくれ。骨喰、よく頑張った」
 主らしく、と努めて出した声は少し震えてしまって、情けなくて、審神者は誰の顔も見れなかった。
 ばたばたとした出迎えを終えて、障子を閉め布団に骨喰を横たえる。手入れ道具を準備していると、骨喰が言った。
「そんな顔をしなくていい。俺は人間じゃないから、おそらくあんたが思っているよりも酷くない」
 寝かされた姿勢のまま大人しく、本体を寄越される。声色はいつもどおり機微がわかりづらかったが、きっと気を遣われているのがわかって審神者はちょっと泣いた。
 何が任せてだ、何がよく頑張っただ、何が主らしくだ、一番弱くて戦えないおれが指示一つでみんなを戦わせているのはやっぱ怖い、かっこつけてられない、審神者は骨喰の本体を受け取ってその重さにまた首を絞められるような思いになる。
「……主? 早く修理してくれ」
「ああ。……おかえり。……じゃあ初めての手入れだから、大人しくしてろよ」
 これがこの本丸の、初陣であった。

 手入れが終わると、骨喰の身体にあった生々しい刀傷は消えていた。ぼろぼろになっていた衣服もまるで新品であるかのようにぱりっと整っている。事前研修で教えられたとはいえ不思議な気持ちで、相対性理論とかなのだろうか、眠っている骨喰にそっと布団をかけた。
 道具を片付けながら、審神者はこれからの動きを頭の中で確認する。今回の出陣について蜂須賀から報告をもらって……報告書は後回しにして、藤四郎たちに知らせよう。いや、執務室に向かう道すがら兄弟を探して声をかけたほうがいいかもしれない。
 ふう、と溜息をつくと、まるで自分が長い間呼吸をしていなかったかのように心臓が急にどくどくと回り始める。思わず胸を押さえた。立ちくらみのような症状に耐えて、目を強くつむる。……うん、大丈夫だ。
「……びっくりしたぁ」
 襖を開けたら藤四郎の短刀たちが団子になっていた。
「すすすみません、僕たち、にいさんが心配でぇっ、」
「主君、お声もかけずに失礼しました!」
 瞳をうるうるさせた五虎退に、頭を下げる前田藤四郎。後ろには腕を組んで難しい表情をした厚藤四郎と、胸の前で手を握った乱藤四郎が立っている。
「骨喰の手入れは終わったから大丈夫。今はよく眠ってる」
 こういう状況で頼りになりそうなのは一期一振だと聞いているが、この本丸ではまだ顕現できていないので刀たちのケアにも気を配らなければならない。触っていいか確認してから(まだ接し方がよくわかっていないのだ)順番に頭をぽんぽんと撫でる。
「待っててくれてありがとう。休んだらすぐ戻れるよ」
「それで、大将。どうだい? 初めての手入れは」
 腰に手を当てた薬研藤四郎の質問に、うっと喉が詰まった心地になる。小さな身体に見上げられているというのに圧倒される。にんまり笑って眼鏡を上げる薬研の姿にすべて察されているのがわかって、審神者は力なく苦笑する。
「はは、手入れ部屋はこれから繁盛してもらわなきゃ困るからな。しっかり頼むぜ、大将」
 そうして藤四郎兄弟たちと別れると、次に審神者を待っていたのは蜂須賀虎徹だった。
「休んでていいって言ったのに」
「報告がまだだろう。それに、彼が傷を負ったのは隊長である俺の責任でもある」
「……いや、おれのせいだよ」
 少し硬い表情をした蜂須賀と話しながら執務室がある離れへと向かう。
 審神者はここ数日で定位置になった座椅子に腰を下ろして、デバイスをタッチして戦績データを呼び出す。向かいに蜂須賀が跪座をして準備は整った。
「じゃあ……蜂須賀、報告を」
「ああ」
 目の前の有機空間ディスプレイに瞬時に表示されたデータを眺めつつ報告を聞く。骨喰が中傷という事態を招いたのはすわ陣形の指示を誤ったか、装備に不足があったか、とさまざまな自分のミスを想定したが、練度の問題と、骨喰自身が無茶に思えるような突撃をかました記録が残っていた。
(骨喰は大人しそうに見えるけど、そういうところもある刀なんだな)
 その代わり一番敵を斬ったのも骨喰のようだ。誉は骨喰だ、と口には出さずに思う。
「……わかった。報告ありがとう」
 政府に提出する報告書は、どうせ後で日報を書かなければいけないので後回しにする。再びタッチして画面を閉じ、審神者は大きく息を吐いた。
「はああ〜、みんな無事でよかった……」
 腕を前に突き出して脱力する。緊張が解けるとどっと疲労感が押し寄せてくる。
 出陣した刀たちが折れることなく揃って戻ってきてくれてよかった。新設の本丸に合わせた戦闘ノルマは簡単なものだったとはいえ、心臓がいくつあっても足りない心地になる。
「なんか甘いものでも食べるか。蜂須賀もどう?」
 とかなんとか言って立ち上がったら、また立ちくらみのような症状で目の前が暗くなる。膝ががく、とくずおれて、机に手をつこうとした。
 ……抱きとめられるような姿勢で支えられていた。
 今までで一番近い距離に蜂須賀がいる。少し慌てた頭で状況を理解すると顔が熱くなりそうだったが、こめかみの痛みが強くなって審神者は思わず顔をしかめた。
「主、あまり顔色がよくない」
「……悪い……ちょっと、だめだな、これは」
「初めての任務を終えたんだ。お疲れなんだろう」
「でも、実地で戦ってるのはみんなだろ。おれは何もしてない」
 自嘲気味に言って顔を逸らす。
「だから……こんな姿、ほんとは見られたくない。おれは何もしてないんだから」
 そのまま口が勝手に動いて感情を吐露してしまった。チカチカとした頭痛は少しずつ大人しくなっていったが、重たい胸の内は変わらないままだった。疲れから自分の弱さを晒してしまったことに不甲斐なさを感じる。
「……主がいなくては、俺たちの誰だって、戦えていないよ」
 審神者をまっすぐに見つめながら、蜂須賀はそう言い切った。審神者は蜂須賀より身長が低いから、視線を合わされると覗き込まれるような姿勢になる。長髪の束がいくつか滑り、鎖骨のあたりをくすぐって落ちていく。
 腰に回された手が、少し角度を変える。
(うわ、)
 審神者はついに鼓動が速くなるのをどこか他人事みたいに感じていた。蜂須賀は肩周りががっちりとしているから、抱きしめられると少し苦しい。蜂須賀が何も言わないから、審神者も何も言わずされるがままになっていた。
 審神者は、今まで生きてきた中で人を好きになったことがなかった。だからわからないけど、結構……結構な状況じゃないだろうか? どうすればいいのかわからなくて思い出したのは研修で配布された審神者マニュアルだった。主、職場、同僚、ハラスメント、神隠し、自由恋愛、みたいな言葉がばーっと頭の中を駆け抜けていく。
「……あるじ」
 呟くくらいの声量で呼ばれたそれは、みんながいる前で呼ばれるものとは違っていて、胸を優しくかき回して、ざわつかせていく。
 その甘さに絡め取られそうになりながらも、胸に抱いていたのは違和感だった。審神者は人間で、蜂須賀は付喪神だ。そして審神者は主で、その非対称な立場とか、身の丈とか、そういうもので気持ちが翳る。
 それに、自分だけに自分とは違う何かの形を当てはめられているような感覚が大きかった。
 審神者は蜂須賀の胸をそっと押し返した。
「……ありがとう、蜂須賀。もう大丈夫だから」
 蜂須賀が少したじろぐ。審神者は彼の顔が見れないまま明るい声を出した。
「お茶でも飲もうと思うから、おれは厨に行くよ。蜂須賀も休んで」
「あ、主——」
「無事に帰ってきてくれて本当に嬉しいよ。お疲れさま」
 審神者は蜂須賀の腕をすり抜けて、労いを込めて肩をぽんぽんと叩いた。
「……ほら、蜂須賀も休んで」
 背中を押して、二人で執務室を出る。廊下にまで来ると蜂須賀は飲み込みきれないような顔を隠せない様子で「わかった」と言って、その返事を確認すると、審神者は逃げるようにその場を後にした。
(……最低だ)
 そう思ったのはどちらだったのだろう。

「だからってそれはないだろう」
「君、本気で言ってるのか?」
 らしくなくお猪口の底を強めに机にぶつけた蜂須賀を、向かいに座った歌仙兼定がじろりと見る。
 夕食後、非番だった刀たちが初陣の話を聞きたいと第一部隊の面々を誘って酒を飲んでいた。初めての酒を堪能する者にペースが速い者。各々が一杯やっているところ、隊長の蜂須賀に飲ませてみればこのとおりだった。
「お疲れの主をいきなり抱きしめるなんて風流じゃない」
「僕は嫌いじゃないよ、そういう大胆なのは」
 歌仙の隣では蜂須賀と一緒に出陣したにっかり青江がうんうんと頷きながらお猪口を傾けている。話題はいつの間にか帰還後の執務室での一件についてになっていた。
「というか蜂須賀虎徹、君たちいつからそういう仲だったんだい」
「別にそういう仲、とかではないよ。ただ主が弱っていたから今が機だと思ってそうしたまでだ」
「はあ!? まだ想いを通わせあったわけでもないのか? なんて破廉恥な……!」
「おやおや」
 唇をわなわなさせる歌仙。出来上がっている蜂須賀を俄然面白がって、青江は蜂須賀に酌をする。
「僕も、流されてくれちゃってもいいと思うけどねぇ」
「それこそありえないだろう。僕だって何も歌を送りあえというわけじゃない、ただ順番というものがあると言っているんだ」
 呟きながら歌仙はお猪口に口をつける。
「まあ、彼にはちょっと刺激が強すぎたんじゃないかい」
「……どうでもいいですけど、この話絶対長谷部に聞かせないでくださいよ。仲間内で刀傷沙汰はごめんですからね」
 憂鬱そうな表情はいつもどおりに宗三左文字が言った。当の本人は酒の誘いを「くだらん」と断って早々に部屋に戻っている。
「健全だよねぇ」
「第一部隊に編成されなかったから拗ねているんでしょう。……それより」
 色の違う瞳が蜂須賀を捉える。
「あなた、その調子であの人に接し続けていたら、そのうち御祓箱ですよ」
「同感だね。それこそへし切長谷部あたりに足を掬われかねない」
「……」
 言い返せない蜂須賀が視線をさまよわせる。実際のところ、夕食の場での審神者はここ数日で深まっていた男士たちとの関係がリセットされてしまったかのように、いつもより言葉が少なくよそよそしい様子だった。特に近侍と何かがあったことは、古参の打刀(脇差一振りを含む)たちには明らかに察せられたのだ。
 宗三はすう、と目を細めながら続ける。
「人間の心……感情はひとえではないんです。好ましい感情と好ましく思わない感情を併せ持つことだってありえますし、裏表だけでもないですし」
「ッフフ、愛にも色々あるってことだよねぇ」
「……どういうことだ」
 顔を上げた蜂須賀に、君って案外堅物だよねぇ、と青江が相槌を打つ。蜂須賀は聞き捨てならない心地になったが、なんとか飲み込む。
「確かに君の想いは主に届かなかったかもしれないけれど、交わしあえる愛だって、僕たちと主なら必ず持っているということだよ」
 歌仙が真剣な声色になって、蜂須賀は自然と彼の言葉に耳を傾けていた。
「僕たちは前の主から愛される心を受け取ってきたはずだし、君なら弟を愛する心も持っているだろう。それらに色々な形があることを考えてみればいい。それを伝えればいいんじゃないか」
「色々な、形……」
 それきり蜂須賀は黙った。周囲のささやかな喧騒に身を任せるようにして、静かにお猪口に口をつけている。
「……俺はひどい悪手を打ったのか」
 しばらくして、蜂須賀は小さくそうこぼした。戸惑いとためらいが入り混じった声色だった。
 蜂須賀はそこで、顕現してからおそらく初めてはっきりと自己嫌悪に陥った。振られた、と簡単に言ってしまえばそれだけ——のところで立ち止まっていたが、審神者と刀剣男士はもっと強く深い絆——愛で結ばれている関係であることを蔑ろにしてしまっていたと、ひどく恥入って冷水を浴びた心地になった。
 プライドの高い蜂須賀が自分の非に萎縮してしまっている様子は珍しく、話に付き合っていた古参の刀たちの間の空気も色を変える。
「……まあ、僕はそういうガッといってワッとなるのも燃えると思うな」
 青江は面白がっている。面白がっていないほうの宗三はハアと溜息をついて、それでも助け舟を出してやる。
「あの人、今向こうで一人ですから。煮るなり焼くなり謝るなり、お好きにどうぞ」
 蜂須賀は顎を引いて、「……ありがとう、失礼する」と簡単に言って行ってしまった。
 決意がにじむ背中に翻る髪を見ながら、青江は肩をすくめた。
「優しいねぇ」
「面倒事が嫌なだけですよ」

 離れの私室で、審神者も酒を飲んでいた。夕食後に始まった酒盛りに本当は混ざってみたかったが、蜂須賀とどう顔を合わせていいかわからなかった。まだ彼らが飲むような上等な日本酒を飲み慣れていない審神者はチューハイの缶を開けている。その人工的な甘さにたゆたっていながらも思考ははっきりとしていて、考えているのはもちろん蜂須賀のこと。
(おれ、今まで生きてきて人を好きになったこと、なかったなー……)
 二十年と少しの人生、学生だった頃の記憶が一番長い。同級生や友人が誰かと付き合っていて、という話を耳にすることも昔から少なくなかったが、百年前ならまだしも、パートナーの有無で他人をはかるような価値観は特に同年代の中では薄れていて、それで何かを感じることはないまま過ごしてきた。
 考えてみれば、恋愛について当事者という意識を抱いたこともなく、想像してみても書きつけてはすぐ消えていくみたいにイメージが膨らまない。
 まだ出会いがないだけだと、いつだったか言われたことがある。本当にそうだろうか? 家族や友人、何より今ともに生活している刀たちのことは「好き」で、この「好き」だけあれば自分には十分だと思ってきた。この「好き」が、まるで恋愛のそれと優劣がつけられるみたいな言い方に不信感を抱いたけど、何も言い返せなかった。
 蜂須賀に抱きしめられたとき、確かにどきどきして体温が上がったような心地になった。でも自分が自分じゃないような感覚だったというのが一番にあった。
 流されてしまえば多分楽で、大きな流れに合流できるのだろう。でも割り切れない、融通が利かないというのとは多分違う、自分のアイデンティティのようなものをそこに感じる。
 自分がどんな人を好きになるのか、ならないのか、今までぶち当たって考えたことがなかった。というより、その感覚を知らずにいたから、その感覚の有無さえにも気づかずにいたのかもしれない。
 審神者は立ち上がって、本棚から政府より刀剣男士向けに配布される性教育マニュアルを開いた。恋愛的指向のことが載っているページがあったはずで、今の自分にはそれが必要だと思った。
 ……うん、とりあえず全部話してみよう。

 蜂須賀と話がしたい、まだ酒盛りは続いているのだろうか、そう思って母屋に向かうと、渡り廊下に蜂須賀がいた。向こうも審神者に気づく。審神者は少し早足で近づいた。
「……蜂須賀」
 審神者からそっと声をかけると蜂須賀は少し驚いた様子だった。今は戦闘服ではない楽な格好をしているから、髪が結われていて表情がよく見えるのだ。
「少しおれの部屋で話したいんだけど、いい?」
 庭の白くて小さな梅の花々は星々の弱い光を受けて、夜の闇の中でも変わらずに咲き続けていることが確認できた。
「……ああ。俺も、主に話したいことがあったから、ここまで来た」
 ためらいがちにそっと顔を見られる。視線を合わせるのはもう気まずくなかった。
「……じゃあ、行くか」

「今日はいきなり身体に触れて、すまなかった」
 私室に入ると、蜂須賀はそう言って綺麗な姿勢で頭を下げた。いきなり素直に謝罪されるとは思わず、向かいに正座した審神者は慌てて蜂須賀に顔を上げさせた。
「え、ううん、いいよ」
 何かに耐えるような苦い表情をした蜂須賀が手を胸の前でわたわたと振る審神者を見る。
「おまえが嫌いでそうしたわけじゃないんだ、本当に……あのな、蜂須賀」
 そう繰り返して、息を吸って、意志を込めて蜂須賀の目を見る。自分の口から思っていたより真剣な声が出ていて、審神者は一旦唾をぐっと飲んだ。
「おれ、人を好きになるって感覚がよくわからないんだ。もちろん蜂須賀のことは好きだけど、恋愛……みたいなのは、自分の中になくて。その分が空いてる感じがあって、それで」
 自分の本心を伝えようすると声が少しずつ震えてしまう。
「自分のことをよく考えたこともないまま、国のために働かなきゃいけなくなって……だけど……えっと、」
 言葉が続かなくなってしまって、審神者は焦って膝の上に置いた手を擦った。
 一瞬の沈黙。
「一緒に見てほしいものがあって、」
「主、見てほしいものがあるんだ」
 声が重なって、はっと顔を見合わせる。
「っすまない、主から……」
「いや、いいよ。一緒に見せよう」
 蜂須賀が何を見せたいのかはわからなかったが、お互い何かからヒントを得て、それを共有して自己を表現しようとする近い思いを抱えているということに、同じことを考えていたのだと、審神者の気持ちが少しやわらぐ。
「前蜂須賀にも渡したと思うけど、これ」
 審神者は後ろ手に持っていた性教育マニュアルの冊子を開いて見せる。
「蜂須賀が見せたいものは?」
「俺は、これだ」
 蜂須賀がおずおずと取り出したのは、分厚い辞書のような本だった。というよりも、
「広辞苑?」
「ああ」
 黒いカバーのそれは確かに辞書そのものだった。新しい日本語や外来語に馴染みのない刀剣男士たちのために政府から支給されるものの一つだった。
「……俺は、蜂須賀家に在って……前の主には、物としてとてもよく愛されていた。そのように、愛の形には色々なものがあると、俺は知っていたのに、主への気持ちが先走って、主の気持ちも確かめずに……。だから、愛という言葉をたくさん引いてみたんだ」
 恵愛、敬愛、慈愛、仁愛、友愛……蜂須賀はさまざまなページを開いて審神者に手渡す。受け取ったときのずっしりとした手触りは蜂須賀の本音の分の重さのような気がした。
「俺はまだ、人間の感情がよくわからないから区別がつかないものもあるけど、俺の主への気持ちにはそういった言葉で表される愛もあると思う」
 いつもより少し控えめな声色で、普段堂々としている彼が、彼なりに悩んだり、一所懸命に考えたりしたのだろうということが伝わってくる言い方だった。長い時間を生きてきても、人の心を持ってからは間もない蜂須賀が出した考えにこれほど主のための思いが込められているという感慨に、審神者の胸はあたたかいもので満ちていく。
「……主。俺の気持ちを傲慢だと言ってくれても構わない。でも、……でも、あなたはこの本丸の始まりの刀に俺を選んでくれた。第一部隊の隊長に任命してくれた。無事に帰還するようにと、任務にお守りを持たせてくれた。……形が違っても、あなたも俺を愛していると、せめて思っていてもいいかな」
 審神者は膝を寄せて蜂須賀に近づいた。
「……ありがとな。おれのこと、人間の感情のこと、いっぱい考えてくれて。……蜂須賀のこと、おれ、ちゃんと好きだよ」
 蜂須賀が顔を上げる。揺れている瞳に頷き返して、冊子を示した。
「そこまで思ってもらえてるなら言わなくてもいいかと思ったけど、でも言うわ。おれは……多分、今のところは、これなんじゃないかなって思う」
 性教育マニュアルの開いたページには「恋愛的指向」についての情報が載っていて、審神者はその中の「アロマンティック」を指差す。
「人を恋愛的に好きになることはないっていうことだ」
 蜂須賀の目が文字を追うのを見ながら、やっぱり、少し声が震えてしまう。自分の心の柔らかな部分を他者に開くことは、とても勇気が必要なのだと思う。
「でもそれ以外の『好き』って感情は、蜂須賀が言ったみたいに色々あるから、何か人間として足りないところがあるとか、そういうんじゃない」
「……ああ、わかるよ」
「蜂須賀は始まりの刀で、かけがえがなくて、いつも近侍としてそばにいてくれるのがすごく頼もしくて嬉しい。近侍も多分変えることはこの先ないんじゃないかって思うくらい、そばにいてくれると安心する。そういう気持ちを今、おれは持ってる」
「主……。俺は、あなたに対して恋愛としての気持ちも……今日示したように、あるんだと思っている。あなたが応えてくれなかったことは、その気がないんだと思っていたけど……そのものがない、ということもあるんだね。……そうか」
 蜂須賀は言葉を噛みしめるように呟く。
「そういう人なんだなあって、思ってくれたらそれでいいから」
「わかった。……わかったと、簡単に言ってしまっていいのかは判断しかねるけれど……主が自分の話をしてくれたのは嬉しいと思う」
「……そうか。ありがとうな」
 それから審神者は、大きく息を吐いて足を崩した。「緊張した」と言ってほっとしたように笑うと、蜂須賀もアルカイックスマイルを作って返した。
「こんなに自分の……なんていうか、核心? っぽいところ話したの、蜂須賀が初めてだ」
 二十二世紀においてなおマイノリティである、知識だけあったそれに自分の居場所を感じて思ったのは、二十年と少し生きてきて、人に恋愛的に惹かれない自分が周囲と違っていることで感じたネガティブな経験が少ないことは幸福かもしれないということだ。きっと百年前あたりはどうだったのだろうと、考えてみる。
 本丸に来てから初めての経験ばかりしているけれど、自身のアイデンティティに関係する気づきさえ、この箱庭の中で起こるとは思っていなかった。自分を見失わないでいられたのは、審神者の飾らないところに心を寄せてくれる刀剣たちがいてくれるからで、この場所もそんなに地獄ではない気がしてくる。
「あ、あと」
 審神者は悪戯っぽく笑って、蜂須賀に手招きをする。上半身を乗り出した蜂須賀の耳元にこそりと囁いた。
「おれ、ハグはOK」
「はぐ……?」
 きょとんとした表情で審神者を見る蜂須賀。
「えっと……今日蜂須賀がしたみたいな、抱擁? は、ちゃんと話をした今ならやっても大丈夫だ」
「……本当かい」
「ああ。いきなりじゃなければな!」
 はぐ、と復唱する蜂須賀に意味を教えてやって……二人の秘密のような雰囲気にしたかったのだが、まあいい。審神者は胸を張って答えた。
「じゃあ、今してもいいかな」
 それこそいきなりだ!
 と思ったが、思いを正直に口にしてくれたことは嬉しく、審神者は耳が熱くなっていくのを感じながらさっきまでの勢いはどこへ行ったのやら、ぼそぼそと答えた。
「……うん」
 すると、視界が蜂須賀を構成する色でいっぱいになる。きらめく黄金に、幻想のように柔らかな薄紅藤に、意志と強さをたたえた水色に。
 あたたかな温度を感じる。自分と違う体温だ。触れているところからゆるく混ざり合っていく。
「嬉しい」
 頭上で優しく囁かれる。ぎゅっと腕に力が込められて、少し苦しくなる。
 それが、今の自分には嫌じゃなかった。
 さまざまな刀たちが集う本丸。生まれた時代も目にしてきた歴史も何もかもが自分と違う付喪神と、戦争のシルエットをかたどるちっぽけな一つの本丸。それでもともにいることが嬉しかった。
「嬉しいよ」
 もう一度、確かめるように蜂須賀が呟いた。審神者は蜂須賀の腕の中でそっと頷いた。
 初春の頃、小さな傷が癒えるまで、二人きりの時間はやがて終わる。
 それだけが、愛おしかった。