!!軸/お題「夕立」
夕立、と辞書で引いたら出てくるような突然の大雨で色を濃く変える街の中を、営業帰りの七種茨は早足で通り抜けていた。無駄な荷物を増やしたくないので毎朝降水確率を見て折り畳み傘を携帯するようにしているのだが、今日の天気予報はどうやら外れたらしかった。
(最悪ですね)
小走りの茨が交差点の信号待ちで足を止めると、向かいの街頭ビジョンでは「都心でゲリラ豪雨 突風に注意」のテロップが流れている。仕事の書類やデータが入ったUSBメモリは防水機能を謳ったビジネスバッグに入っているが、あまり意味を為さないかもしれない。強風で雨が横から吹きつけて、守るようにバッグを胸に抱えると濡れた前髪が眼鏡にかかり、雫がレンズに滴る。鬱陶しくて頭を払っても意味はなく、茨は目についた大きめのコンビニの軒先で雨宿りをすることに決めた。
ついでに涼しい店内でアイスコーヒーでも買って一息つこうかと思いながら近づくと、そこには先客がいることに気づいた。
骨が折れたネイビーの折り畳み傘を持て余しながら困ったように灰色の空を見上げているのは、伏見弓弦だった。
「げっ」
思わず声が出ると、弓弦も茨に気がついて視線が合った。あからさまに警戒の色が濃くなり、舌打ちをしそうになる。少し距離を置いて横に並び、バッグからハンカチを取り出した。
この雨の中コンビニを訪れる客は他にはおらず、ざあざあという音だけが二人の間で流れている。濡れたシャツが肌にへばりつくのが不快だった。茨はネクタイを緩めて首元の汗をざっと拭くと、眼鏡をかけ直した。
「なんであんたがいるんですか」
「……坊っちゃまへ届け物をした帰りです。あなたは……」
弓弦から品定めをするような視線が寄越される。茨は全身がずぶ濡れであることを恥じたが、今更どうすることもできず、ただ苦い表情をした。
「っ、お互いさまでしょう」
「まだ何も言っていませんよ」
茨ほどではないが弓弦も濡れていて、鎖骨のあたりは白いシャツから肌が透けて見えていた。走ったのか、この暑さからか少し熱っぽい溜息をつく弓弦。思わず目を奪われて心臓がかっと燃えるが、顔を背けて前髪をかき上げた。鈍いマゼンタの束は指でしごくとぽたぽたと雫を垂らす。眼鏡のレンズの上にまた筋ができて、そこだけ景色が二重になって見えた。
弓弦もハンカチで額を押さえている。とにかく蒸し暑い。湿気は泥のように身体にまとわりついてきて、日中散々熱された足元のアスファルトからは陽炎のように独特の匂いが立ち上っている。まるで異国のような心地だった。
お互い、きっかけを探っているような空気だった。どちらかが口火を切ればいつものような言葉の応酬が始まるということは十分すぎるほどわかっていた。
背後の自動ドアが開いて、チープな開閉メロディと一緒に漏れてきた冷えた空気が肌に触れた。退店したサラリーマンがビニール傘を開いて去っていく。
「……ふふっ」
弓弦が笑った。ぎょっとして彼の方を見ると、口元に手を当ててこらえきれないような様子で肩を震わせている。
「ついに暑さでおかしくなりましたか」
突然笑い出した理由はわからなかったものの、茨の口からはすらすらと嫌味が出てくる。
「ふふ……いえ、思い出したことがございまして」
アメジストの瞳を綺麗に細めた後、弓弦は茨の目をまっすぐ捉えた。
そのここではないどこかを見ているような視線に茨の周囲の時間は止まったかのようだった。叩きつける雨も、水槽の中にいるような気分も、歩行者信号が変わる音も、まるで街のすべてが動かなくなったかのように息を潜めた。
認めたくないけれど、彼が懐かしんでいる思い出がきっとわかって、何かを言おうとした茨の唇はただ震えて音にならない空気を漏らした。
——あの夏の日の夕立。
その日の訓練は土砂降りの中行われた。
茨と弓弦は演習場に設置されたドラム缶の影にいた。地面に伏せているから、激しい雨が跳ね返って砂が容赦なく口の中に入ってくる。
「弓弦ー!」
茨は全身に襲いかかる雨の音に負けないように大きな声を上げた。
「なんですかー!」
雨は鋭い直線のようになって目の前のドラム缶に打ちつけられて、お互いの声が全然聞こえない。弓弦も声を張り上げて応答した。
「俺たち、いつまでこうしてればいいわけー!」
茨がまた大声で問うた。指示があるまで待機とのことだったが、トランシーバーは先ほどからまったく反応がない。
「指示が、ありますからー」
「全然、かかって来ない、じゃーん!」
身体の下にできた水溜まりに雨が跳ね返って、茨の口に泥水が入った。うえ、と舌を突き出すと、そこにまた容赦なくぬるい水が降り注ぐ。濡れた眼鏡を擦ると、どろどろの演習着のせいでかえって汚れるばかり。胸元の黒い箱は変わらず無言のままであり、ただ重いだけであった。
散々な様子の茨がたまらず声を上げると、弓弦が肩を震わせていた。この雨と押し殺した様子で声は聞こえなかったが、茨は弓弦が笑っていることがわかって目を釣り上げた。
「なんで笑うんだよ!」
「ふふっ……」
くくっと喉の奥でこらえるようにしている弓弦の頬にも泥がついているのを見ていたら、そのうちなんだか茨も笑えてきた。脱力して、二人でひとしきり馬鹿みたいに笑い合う。
「俺たち、こんなびしょ濡れで何やってるんでしょう」
「何って、ふふっ、訓練だろ」
「そうですけど、ふふ」
弓弦は腹這いの姿勢のまま顔を上げて、何かを見つけたような表情をした。茨が視線を追うと、向こうの空から明るくなっていくのが見えた。
夕立が過ぎていく。
分厚い灰色の雲の隙間から光が差した。クリーム色の日光が鍵盤のように広がる。水滴がキラキラと光り出して、あたりはつかの間非日常的な雰囲気に包まれる。
その時、トランシーバーからやっと指示が飛んできた。弓弦はさっと身体を起こし、ドラム缶の影で体勢を整える。
「訓練が終わったら、冷たいデザートでも作りましょう」
弓弦が顔だけ振り返りながら言った。
「きっと美味しいですよ」
茨も身体を起こしながら、晴れていく空と弓弦の顔を見てなぜか胸が苦しくなった。
何かの予感を感じて、前を向いた弓弦の背中にあてどなく手を伸ばしそうになる。
茨の胸元のトランシーバーがけたたましく鳴って、我に返る。
結局それは叶わなかった。
夕立が、過ぎようとしている。街中をいっぱいにしていた轟音は、もうぽつぽつと軒に落ちてくるばかりだ。
「……昔話をしたところで、どうにもならないのですけど。あの日の訓練は今日みたいに散々でしたね」
「……さあ、どうだったでしょうか」
あの時の自分は、いつか大切な何かを喪失する未来をそこに見ていたのだろうか。もう今となってはわからない。茨は次第に弱まっていく雨を見ながら考えた。
「さて、わたくしはそろそろ失礼いたします。お気をつけて」
弓弦は壊れた傘を持って、雨の名残が光の粒になって溢れた街へと一歩を踏み出した。
もうそのうなじに翻るロイヤルブルーはないのに、光の中を行く背にあの日の弓弦の幻を見た気がして、今度こそ茨は弓弦に手を伸ばさんとした。
逡巡。
——今更、何を?
(今はもう違う。あんたをいつでも殺せる)
自分はおおきくなったのだ。茨は拳をぎゅっと握った。
大げさに腕を振り、大股で弓弦の背に追いついてやる。
「あんたこそ、風邪引いて死なないでください、よ!」
追い越して捨て台詞を吐くと、それだけで茨の胸のうちはすがすがしい気分でいっぱいになった。
感傷はもう、あの灰色の空の下に置いてきたのだ。
弓弦は少し面食らった顔をした後、挑戦的に笑って後をついてくる。今の茨が好きな弓弦の表情であった。
雲の隙間から夕日が顔を出した。光線は帯になって少しずつ降り注ぎ、魔法をかけたように世界がぱあっと明るくなっていく。
水溜まりを飛び越す。次に飛んでくる言葉にどう答えようか考えながら、強烈なオレンジ色に目を細めた。
さよならだ! 茨が眩しがったのは、あるいは——。