!!軸/お題「なぞる」
開演前。茨はハットを取って端の席に腰かける。
ジュンが主演を務める舞台に来ていた。アクションあり、実は王族の血筋を引く不良の主人公が戦いながら成長していくファンタジー漫画が原作――というオーディションの情報を見て、なるほどうちの事務所にはジュンしかいないだろう、と思った。実際に彼はその実力をもって主役に選ばれていた。
多忙により他のメンバーと同日の観劇は叶わなかったが、劇場はほとんど女性客ばかりで、複数人で来たらかなり目立ちそうだ。客層は出演者の――アイドルのファンが多いと見込んでいる。
この舞台には、他にもESのアイドルが出演しているからだ。それは最近俳優として頭角を現している伏見弓弦だった。
弓弦は主人公の兄役だ。自分の血統に基づく使命をまっとうしており、家を飛び出した弟のことを毛嫌いしている――らしい。設定がいかにもイメージと重なる。
今日はあくまでユニットメンバーの仕事の様子を見に来ただけだ。舞台の幕が開いて、茨は自分にそう言い聞かせる。
茨の心を波立たせたものがこの舞台に一つあった。事務所に届いたPRのためのポスターを確認した時、どきりと心臓が跳ねたのだ。正面を飾るジュンから、思わずその後ろに写る弓弦を注視した。
弓弦の役は深い紺色の髪を胸元までまっすぐ伸ばしていた。まるで、昔の弓弦がそのまま成長した姿のようだった。
舞台上では、今は主人公が路地裏で小競り合いを繰り返して名を馳せていく場面が繰り広げられている。アクションをしながらも生き生きとした表情を崩さないジュンの声が力強く響く。
(流石ですね)
そうこうしているうちに弓弦と邂逅する。下手の袖から出てきた弓弦の顔を見た。ジュン曰く、クライマックスで兄は弟を庇って死ぬらしい。美味しい役だ。
中盤からは登場人物の内面がより描写されるようになり、今はジュンが葛藤を独白している。挑発的ながら陰のあるこの役はやはりぴったりだったと思った。
クライマックスに向けてアクションもドラマも昂っていき、闘いは熱量を増していく。ついに、満身創痍のジュンがくっ、と顎を引いた。短剣を持った敵がかぶりを振る。弓弦がジュンを突き飛ばし、真っ赤なスポットライトが彼を射抜いた。
異様な緊張感の中で、ジュンが叫びながら剣を拾い、敵に切りかかる。
茨はやや冷めた気持ちでそれを見ていた。客席からはすすり泣くような小さな息が漏れていた。
長い闘いが終わり、暗転した。カーテンコールが始まり、舞台の上の生のきらめきは日常の一部に戻っていく。拍手の中、客席の照明が灯る前に、茨は席を立った。
パーテーションで間仕切られた楽屋では俳優が思い思いに過ごしていて、ジュンは水を飲んでいた。
「アドリブのシーン、スベってましたよ」
「ちょ……、言わないでくださいよぉ〜、昨日まであそこ振られるの俺じゃなかったんで……」
いきなり感想がそれってなんなんですか、と不満そうなジュンは、ペットボトルを強く握ってべこ、と音を立てる。
「着替える前に写真撮りますか」
ユニットメンバーが個人の仕事にも来てくれました、というオフショットはファンの間で需要が高い。茨も頷いて廊下に出ようとする。
入れ違いに向こう側から楽屋のドアが開いてたたらを踏んだ。
弓弦がいた。
身体の動きを追いかけるように長いウィッグの毛先が胸元で揺れる。
弓弦は、茨がいることに少し目を丸くしたようだったが、すぐにジュンの方を見た。
「お疲れ様でございます」
「お疲れさまっす。伏見さんも写真いいですか」
「写真、ですか?」
「せっかくなんでこのまま」
「わたくしは構いませんが」
「ありがとうございます。茨は?」
おい。なぜ俺に聞く。
「もちろんです」
わざとはきはきとした調子で言ってやった。
三人で写真を撮る。茨は俳優同士のツーショットを撮ってからジュンの横に滑り込んで、適当にポーズを取った。
楽屋から他の俳優やスタッフも出てきて、廊下はにわかに騒がしくなった。ジュンは別の共演者にも呼ばれていったので、茨は弓弦と楽屋で二人きりになった。
「来ていたのですね」
「ええ。メンバーの仕事ぶりをチェックするのも、仕事の一環ですので」
ぶっきらぼうに言って視線を逸らす。
弓弦は少し笑って、
「この髪。『俺』みたいでしょう」
と言った。
簡単に。
少しいたずらっぽいその表情に、茨はくらくらとしてしまった。らしくなく、頭でも抱えたい気分だった。
この男はいつも茨をひらりと飛び越えて、その先からこちらを見つめてくる。追いつけない茨の方をほんの少し届かないところから見て微笑んでいる。まるで軒先にたたずむ天使のように。そんなものは見たことないけれど、ずっと、そうだ。
同じことを考えていても、割り切れなかった自分にかっとして、割り切ってしまう弓弦の手首を掴んだ。
こんなことをしても意味がない。しかし、茨は衝動のままに弓弦の唇を塞いでいた。
本当は叫びだしそうだったが、隙間の柔らかさに集中して、毒でも流し込むようにそっと舌を入れる。熱い上顎をなぞると少しだけざらついた粘膜の感触がした。メイクと汗の香りがして官能の心地に酔うようだった。弓弦がたじろいで頭を動かすと、夜色をした偽物の髪が一房肩を滑っていった。その毛先に指を差し入れる。
蛇が獲物を締め上げるように、今、自分が音もなくこの男のペースを乱している。そう意識すると、たまらなくかきたてられて、茨はいっそう深く口づける。心臓が強く胸を打った。
押さえつけていた手首を離して、驚いた様子の弓弦を見る。自分から仕掛けたのに自分も同じ表情をしているような気がする。静かに、ただ顔を見合わせた。
廊下から、わっ、と笑い声が聞こえてくる。写真撮影をしていた俳優たちが解散したようだ。足音や話し声が近づいてきて、二人の間に横たわっていた沈黙は消えた。
「……あんた、もっと汚く死んでくださいよ」
後ずさって、舞台を見ながらずっと思っていたことが口から出た。
弓弦は瞬きを繰り返して、「なんですかそれ」と呟いた。
感動的な退場なんて似合わない。そうだ、弓弦の姿をして誰かのために命を終えたあの役が、気に食わなかったのだ。幼稚な胸のうちに気がついて茨は口をつぐんだ。
「感想を言いたかったのですか」
「違います」
とぼけたことを尋ねられる。茨はもう一度唇を押しつけて、彼の言葉を使えなくしてやった。