Do You Still Dream in Heaven

!!軸/年齢操作/死ネタ/幼少期の回想で、自然死した動物を埋葬する描写があります/初出・2021年
弓弦の幽霊が突然見えるようになった茨の話です。

 

 演習場に野犬が迷い込んで、夜を越せなかったようだ。茨と弓弦は穴を掘っていた。
 霜が降りた地面は硬く、シャベルを何度も振り下ろす。寒さと衝撃で手が痺れた。後ろで同じことをしていた茨はもう音を上げたようで、突き立てたシャベルの柄に顎を乗せてぶらぶら揺れていた。
「ねえ、もうよくない?」
「まだ深さが足りませんよ。黙って手を動かしなさい」
 弓弦が振り返らずにぴしゃりと放つと、茨は溜息をついて伸びをした。
「なんで俺たちがやらなくちゃいけないわけ? これ終わった後は?」
「いつも通り、スクワットから始めますよ」
「ええー!」
 弓弦は聞こえないふりをして穴を掘り続けた。茨はまだ何か言っているようだったが、さして重要ではなかったのですぐに忘れてしまった。
 腰をかがめて、かじかみそうな手のひらでシャベルを掴みなおして体重をかける。そうして続けていると、ようやく十分な大きさの空間ができた。
 穴の中に亡骸を横たえて、側にできた山から土を落とす。埋めるのはあっという間だった。穴だった場所が周囲の地面と同じような色合いに戻る。ちょうど様子を見に来た大人が穴だった場所に向かって手を合わせた。茨と顔を見合わせて、同じようにした。
 演習場の端から、これまた端にある倉庫へと、シャベルを戻しに黙って歩く。ときおり強く風が吹きつけると、雪が飛んでくる。耳の感覚がなくなったように痛んだ。
 先を歩いていた大人が倉庫の鍵を開けて、暗く黴臭い中へシャベルを置いてすぐ扉を閉める。時間をかけて掘った穴を埋めたようにつつがなく、元通りになっていく。
 来た道を戻れば、寒風が吹きすさぶ中、いつも通りに訓練が始まる。
「目印、つけなくてよかったのかな」
 歩きながら顔だけ振り返って茨が問うた。
「さあ、そこまでは指示されていませんから。でもきっと、すぐ骨になりますよ」
「ふーん」
 茨はうんざりしたように続けた。
「俺の骨もここに埋められるのかなあ」
「おや。訓練は死ぬほど辛いですか?」
「……笑顔が怖い! でもさ、考えるよ。俺たちは……少なくとも俺は文字通り野垂れ死ぬんだろうなってさ」
 たまたまそこにあった石ころを気まぐれに蹴りながら茨は言う。弓弦はちょっと考え込むように黙った。
「俺の骨はどこへ行くんでしょう」
「お屋敷に立派な墓が建つだろ」
「そうでしょうか」
 風が吹く。

 目が覚める。昔の夢を見ていた気がした。頭は完全に覚醒していた。
 仕事部屋として所持している1Kのマンションにこもってそのまま寝てしまった。今日は出社日なので上半身を起こしてサイドテーブルから眼鏡を取る。
 伏見弓弦がいた。
 心臓が止まるかと思った。
 いよいよ自分も終わりかと思った。
 鬼教官で執事でアイドルで、何をしても自分が殺すことができなかった伏見弓弦は五年前にあっけなく事故死した。だからこれは幻覚で夢なのだ。
 そう思うも、あの頃と違わずそこで生きているかのような姿を見て、指先でさえ動かすことができなかった。
 弓弦の形をしたものは茨と目を合わせて言った。
「わたくしが見えますか」
 茨はぽかんと口を開けた。ああ、いよいよ夢だ。
 弓弦は呆けた顔の茨を見ると、ほっとしたような表情を見せた。
「よかった……やっとあなたと話ができましたね」
 どうやら弓弦が自分を認識し、話しかけてきているようだ。
 そんなはずはない。茨は弓弦の死を確かに見たのだ。あの衝撃と喪失感を、悲しみを、彼の主人や級友が流した涙を、生々しく覚えている。これが夢ならば、未練がましくて笑い飛ばしたくなるくらいだ。
 でも確かに今、伏見弓弦の姿をしたものが目の前にいて――状況を整理するより早く口が動いた。
「……弓弦、なんですか」
 声がずいぶん震えていて、幻覚相手に何を、と思った。
 弓弦は答えた。
「はい」
「……死んでいるんです、よね」
「ええ、残念ながら死んでいます」
 意味がわからない。
 夢じゃないのか? 夢だろ。
「夢なんでしょうか」
「いいえ。わたくしも信じがたいですが……そうではありません」
 いや。夢の中で問うても仕方がない。
 古典的な方法だが、茨はベッドサイドに放っていたボールペンを手に取ると手の甲に刺した。細いペン先は皮膚を破って赤く汚れた。痛覚が刺激される。では夢ではないのか。
 混乱に次ぐ混乱に襲われて、茨は限界だった。寝起きの頭を思い切り回転させて、
「俺はもうすぐ死ぬんでしょうか」
「いえ、おそらくそういうわけではないと思います」
 あの世からのお迎えかと思ったが違うらしい。
「じゃあ、じゃあどういうことなんですか!」
 頭がパンクしそうで言葉が詰まる。思わず伸ばした手は弓弦の胸あたりを貫通して空を切った。ぎょっとする。その光景を見た弓弦の顔が一瞬歪む。
「落ち着いてください。気持ちはわかりますけれど」
「あ、あ、あんたのせいですけど!?」
「はい」
「俺はまだ死にたくないんですよ! まだやりたいこともたくさんあるし、やり残したこともあるし、それになによりっ!!」
 言葉が出てこなくなった。何か言いたいことがあったはずなのに、頭の中が渋滞したようにそれが出てこない。
 弓弦が? なんで? 俺はおかしくなったのか?
 ――どうして死んじゃったんだよ。
「茨、落ち着きなさい。ゆっくり息をしてください」
 言われた通りに深呼吸をする。名前を呼ぶ声色が変わっていなくて、また胸が苦しくなって、しばらくそうしていたら少しだけ息がしやすくなった気がした。
「……取り乱しました。すみません」
「はい」
「……いやそうじゃないんですけど」
 状況は何も変わっていない。
「じゃあなんですか、あんたは幽霊とか、それか疲れておかしくなった自分が見てる幻覚ってことですか」
「おそらく幽霊の方かと」
「そんなのいるわけないでしょうっ! 塩撒きますよ!?」
「まあ、あなたのことなら信じないとは思いますが……」
 茨はボールペンで付けた傷を爪先で抉った。夢ならそろそろ覚めてくれ。
「……」
「……」
 なんとも言えない空気が漂う。
 弓弦は――弓弦の幽霊は所在なさげにふわふわと漂っている。膝下あたりから身体が徐々に透けているのが見えて、茨は考えるのをやめた。
 傷口を弄っても血が出なくなるほどたっぷり時間をかけて、口を開いた。
「……あんたが幽霊だとして、じゃあなんでここにいるんですか」
 あんたは俺のこと、嫌いだったでしょう。
 言葉が続かなくなってうつむく。
 弓弦は困ったような表情になる。
「それがわたくしにもわからないのです。気がついたらここにいて……ここはあなたの部屋でしょうか? 何かに触ることもできませんし……」
 そう言って弓弦は白い手を翳す。まるで信じられないが、ベッドに手を伸ばしても空を切るばかりだ。
「……確認しますけど。あんた、本物なんですか?」
「しつこいですね。あなたが一番よく知っているはずでしょう?」
「それはそうかもしれませんが……でも、だって弓弦は……、死んだんですから……」
 顔に白い布が被せられた身体。
 葬儀の弔辞。
「……そうですね。でもこうして存在している。少なくとも、わたくしの……意識のようなものは、ここに……」
「……」
「……信じてください。おそらくあなたしかいないのです。今のわたくしを、見ることができるのは」
 助けを求めるようにこちらをうかがう瞳と視線が合って、たまらない気持ちになった。
「~~っ、やっぱり信じません! 信じませんからっ!」
 やけっぱちに叫んで、茨は寝室を飛び出した。

 結局あの後、弓弦の幽霊だか幻だかを無視して、部屋を飛び出してきてしまった。ドアを閉めてしまえば声も聞こえなくなった。都合のいい妄想だ。社員証をかざしてESビルのエントランスを抜け、エレベーター横に設置された自動販売機のボタンを押しながら溜息をつく。
「おはようございます」
「ああ、おはようございます」
 出勤してきた事務所のスタッフに声を掛けられる。並んでエレベーターを待っていると、彼は茨の缶コーヒーを持つ手を見て言った。
「あれ。副所長、どうされたんですか? お怪我ですか?」
「……ああ、はい……」
 この傷は他人にも見えるらしい。

 幻覚を見るほど疲れていても、仕事はいつもと変わらない。今日はアイドルとしてはオフ日だが、月末の事務作業をするためにひたすらパソコンに向き合っていた。
 次の書類に目を通そうとして、ふと思い立って検索エンジンに「幽霊」と打ち込んでみる。

 幽霊(ゆうれい)とは、以下を指す概念。
 ・死んだ者が成仏できず姿を現したもの
 ・死者の霊が現れたもの
 ――フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「いやいや……」
 自分は何をやっているのか。ブラウザを閉じた。

 時間が経つにつれ、朝の出来事は流石に自分の幻覚だったのではないかと思いなおした。帰路のコンビニで会計をしながら考える。
 ここのところかなり仕事が立て込んでいてうまく睡眠時間が取れていない。おかしくなっていたのだ。そうに決まってる。今日は家に仕事を持ち帰らずにゆっくり休もう。
 自分自身に言い聞かせて、一瞬逡巡してマンションのドアを開ける。
 弓弦がそこにいた。
「なんでなんだよ……」
 全身の力が抜けて、玄関に蹲ってしまいそうになる。
「いい加減認めなさい」
 ふわふわと近づいてくる姿を恨めしく睨む。
「坊ちゃまのところへ行こうと思ったのですけれど、できませんでした」
 弓弦はそう言って頬に手を当てる。このイレギュラーな状況をすっかり受け入れたようだった。
 無視して夕食を摂ろうとすると、弓弦はコンビニの袋を覗き込んできた。
「ちゃんと栄養は摂っているのですか」
「ちょっと、なんなんですか」
「あなたはずいぶん忙しそうなので」
「うるさいですね……」
 なんだかんだこの状況に慣れてしまっている自分に舌打ちしそうになる。

 風呂から上がると、弓弦はデスクのあたりを漂っていた。
 その背がなんとなく頼りなく感じて髪を拭きながら近づくと、弓弦は足音に驚いたような表情で振り返った。
「……弓弦?」
「……これを、」
 弓弦が指さした先には、Edenのステージ写真があった。それは最近のコンサートのグッズとして発売した写真で、らしくないとは思っていたが、茨が一枚だけ簡素なフォトフレームに入れて飾っていたものだった。
 弓弦が知ることのできなかった、今もアイドルをする自分の姿だった。
 見つめる弓弦のまなざしが違って見えて、茨の心臓が大きく音を立てた。
 ……いや、先ほどまでの自分はこれを厄介な幻覚だと思っていたはずだ。今更何を思うのか。
「あなたはアイドルを続けているのですね」
 そうして弓弦は少しだけ言葉を選ぶように首をかしげると、そっと口を開いた。
「坊ちゃまはお元気ですか」
「……ええ」
「ふふ。そうですか。あのお方は……そうでなくてはなりませんね」
 やわらかな声色で、確かめるように呟く。
 なんでそんな声で、そんなこと聞くんだよ。
 弓弦がここからいなくなってしまいそうで、でも押し黙ることしかできなかった。
 ただ予感だけが身体を駆け巡る。
「……」
「英智さまのお体は」
「……ぴんぴんしてますよ」
「それは何よりです」
「……」
「茨」
「……はい」
 唇を噛む。
「……わたくしは、きっとあなたの名前を呼ぶためにここに来たのだと、そう思うことにしたのですよ。あなた、言っていたでしょう……いつでもわたくしを殺せると。でも、そうはなりませんでしたから」
 そう言って困ったように笑った。
 茨はたまらない気持ちになって、弓弦の胸ぐらに――胸ぐらがあるあたりに手を伸ばした。
 伸ばした手は虚空を掴む。
「弓弦」
「はい」
「……弓弦」
「ここにいますよ」
「嘘だ」
「……」
「俺は、あんたのことが嫌いでした」
「ええ」
「……でもそれだけじゃなかった」
「……」
「わかってたでしょう。わかってたくせに、置いて行った」
「……」
「あんたはずるい。ずるいです」
「……茨、」
「最低です」
 子どものような言葉しか出てこなくなって、情けなくて涙が出そうになった。
「茨、聞いてください」
「……」
「わたくしも、あなたのことが結構好きでしたよ」
「っ……嘘つき」
「本当ですよ」
「……じゃあなんで、」
「……」
 弓弦が息を吸って、吐いた。
 そしてゆっくりと背中に腕を回してきた。
 身体は重ならない。
 温度も感じない。
 それでも弓弦は試みた。
「ここにいますから」
 茨の唇にあたたかなものが触れても、それは自分が流した涙だった。
 弓弦が自分のものになればいいと思っていた。でもそれは、伏見弓弦の魂が伏見弓弦である限り叶うことではなかった。
 そういうところが嫌いで好きだった。茨は触れることができない弓弦の胸に頭を預けながら思った。涙が眼鏡のレンズにぼたぼたと落ちて、強く目を瞑ると瞼の裏に星が弾けた。