!!軸/年齢操作/成人済設定/初出・2021年
名前を呼ばれて意識が戻る。
少しの間、ぼうっとしてしまったようだ。
食器の擦れる音、ささやかなざわめき、当たり障りのないクラシック。それらが波の音のように大小のうねりを伴って聞こえる。
……疲れているのかもしれない。らしくない。
今日はESを挙げてのスポンサーとの会食であった。スタプロの代表として英智と、アルコールがふるまわれる場ということもあり年長の渉が参加するところであったが、彼は舞台の地方公演中で、弓弦に白羽の矢が立った。もっともあくまでも補佐役で、お偉方の興味関心は天祥院家の御曹司やコズプロ代表の副所長に注力されているのは明らかだった。英智のそばに付き、勧められればそこそこに酒を飲んでそこそこに食事をしていたのも、会合が始まっていくらかもすれば落ち着きを見せていた。
こういう場には慣れているはずだった。中央にある大きなシャンデリアの下で談笑する英智をなんとなく見やると目が合った。英智からの目配せを感じる。弓弦はそっとその場を辞した。
廊下に出ると、ふかふかとした絨毯に足を絡めとられそうになる。本当にらしくない。英智にも異常を悟られるとは……。しっかりしなければならない。
離れた場所にある化粧室には人気がなくひんやりとした空気が漂う。なんとなく蛇口の下に手を差し伸べると、冷たい水が指をじんと痺れさせた。ハンカチで手を拭いても変わらない違和感に嘆息して、律する気持ちで鏡を見つめる。不自然なほどに白い照明に照らされる己の相貌は変わらなく見えるのだが、何かが身体に纏わりついている。
「……弓弦?」
振り返ると化粧室の扉を開けた姿勢の七種茨がそこにいた。眼鏡越しに観察するような視線を受けて思わず顔をしかめそうになった。またいつものごとく活弁のような嫌味が飛んでくると思ったが、茨は眉間に皺を寄せてつかつかと歩み寄ってきた。
「大丈夫ですか? なんか変ですよあんた」
その言葉に胸がちくりとする。
「……いえ、そのようなことは。どうぞお構いなく」
「ふうん。こんなところで油を売っている暇があるんですか」
ぶっきらぼうに吐き捨てた茨は奥に向かった。元々少し頭を冷やしてすぐ帰ろうと思っていたが、この男が居合わせるならいよいよ長居する必要はないだろう。頭痛が加速しそうな会話の応酬を繰り広げることになりそうだ。
本当に今日はついていない。会食など、付き従って幼い頃から経験してきた。それなのにいつも以上に疲れてしまった。ここのところ忙しかったからだろうか。体調管理もアイドルの仕事のうちであるなら、今の自分はそれをこなせていない。
ハンカチを胸ポケットに押し込み顔を上げると、奥へ向かったはずの茨がそこにいて、じっと顔を覗き込まれる。
「……なんですか」
「ねえ、やっぱり変ですよ。具合でも悪いんですか」
「いいえ。……あなたこそわたくしに構っている暇など、」
あるのですか、と続けようとしたところで突然腕を取られた。
腕を強く引かれて茨の胸の中に飛び込むような形になり、たたらを踏む。
何を。というか、茨が動く気配に反応するのが遅れた。それほどまでに今の自分は感覚が鈍っているというのか。
「ああ、やっぱり……あんた、酔ってますね」
酔ってる。酔ってる、とは。
「は、」
「まったく情けないですね。自分に隙を見せるなんて本当にどうにかしてますよ」
「わ、わたくしが……」
アルコールの加減を間違えるはずなどないでしょう。
しかし弓弦の内心では、図星を突かれた気持ちになっていた。姫宮家では食事や酒を伴う会合は日常茶飯事であり、そういった場での立ち振る舞い方について従者である弓弦も教育を施された。そこでわかったことだが、弓弦はアルコールにあまり耐性がない。嗜む程度なら問題がないのだが疲れもあり酔いが出てしまったと、認めたくはない結論に行き着いてしまい言いかけた言葉をしまって唇を噛んだ。 この全身に絡みつくような違和感は酒のせいなのか。
「はあ、もう……そんな調子で大丈夫なんです?」
よりによってこの男に醜態を晒すとは。苛立った感情をうまくコントロールできなくて、いよいよ自分が酒に酔っていることを感じた。せめてもの抵抗のつもりでじろりとねめつけると、茨は外を顎でしゃくる。
「あっちはもうすぐお開きですけど、どうするんですか」
「……戻ります。あなたの心配など無用です。いい加減離してくださいまし」
腕を振りほどこうとすると額になまあたたかい感触があり、それが茨の手だと気づいた時には頭を押さえつけられていた。
何が起こったかわからず、ただ混乱だけが脳を支配する。
「何しているんですか、茨」
「うるさいですよ」
「やめてください」
「……熱い」
そう囁かれて、弓弦は目を瞬かせた。
何か言おうとして口を開くが、言葉にならない。なんだこれは。
奇妙な姿勢で密着している姿が照明にこうこうと照らされて目の前の鏡に映っている。上等なシャツ越しに伝わってくる茨の脈拍の音が遠くで鳴るクラシック音楽と混じりあう。
沈黙ののち、弓弦は口を開いた。
「……あなたも、随分酔っているのですね」
情けないことに、成人したての弓弦と茨はまだ飲み慣れない酒にすっかり酔ってしまったようだ。
だから茨は弓弦に必要以上に接触してきたのだろう。
我に返って茨の腕を押し返して会場に戻ると間もなく立食パーティーはお開きとなった。
英智にこそりと耳打ちされる。体調不良を察していた英智がこのホテルの部屋を用意したのでそこで休むようにと。
英智の手を煩わせてしまったことに申し訳なく思ったが、それ以上に星奏館で待つ桃李に今の自分を見せたくない気持ちの方が大きかった。疲れを実感してからというものの、まるで頭が心臓になったようにどくどくと脈打つような感覚がある。仕事で会食に向かい酔って帰ってくるなど示しがつかない。
「申し訳ございません……」
「君は働きすぎなんだ」
車に乗り込みながら英智が言う。ひやりとした冬の外気に包まれて身体の熱さを自覚する。
「丁度いい機会だと思って休んで。今日はよくやってくれたよ」
「……はい……」
「そういうわけで、七種くんのこともよろしくね」
「は?」
目の前でドアが閉まる。車窓に呆けた表情の自分を映して英智を乗せた車はなめらかに去っていった。
キーを渡された部屋に向かうと、ベッドに座ってタブレットを触っていた茨が勢いよく顔を上げた。
「よろしくね」と言った英智の妙に機嫌が良さそうな瞳を思い出して頭を抱えたくなった。今日はとことんうまくいかない。
「はあ? なんでここにいるんですか」
「英智さまの気まぐれです」
溜息をついてコートをハンガーにかける。ついでに椅子の背もたれにかけられていた茨のコートも手に取ると、状況を飲み込めていないらしい茨が眉をつり上げた。
「ちょっと、何当たり前みたいにやってるんですか」
「察しが悪いですね。英智さまにこの部屋で休むように言われたのです。酔っぱらい同士仲良くしろということでしょう」
「……」
「……」
「……この部屋ツインじゃないですよ」
そういうことになった。
言いたいことは山ほどあったが、いつもの調子でやりあうのは避けた方が賢明と判断し、結局ソファがあるからということで折り合いをつけた。タブレットに向き合っている茨を見て、弓弦は勝手にバスルームへと向かった。
英智も何を考えているのだろう。あの人は茨と弓弦の関係を面白がっているところがある。茨と弓弦の仲は別に良好ではない。なるべく関わるのは避けたいし、それでも顔を合わせてしまった場合はお互いちくちくと言葉を刺し合うような会話をするのが日常だ。
それにしても化粧室での茨はなんだったのだろうか。やり取りを思い出す。あんな風にやさしく触れて言葉をかけるような茨、居心地が悪い。
いつになくぼうっとしてしまって、気づけばかなり長くシャワーを浴びていた。バスルームを出て茨に声をかけようとしたところで頭痛が走った。ふらついてスツールに腰かける。ああ、自分は酔っぱらいだったのだ。
「ちょっと、大丈夫ですか」
茨が立ち上がって近づくのを視界の端で見ながら頭を少し振った。
「……あなたの言うとおり酔いすぎたようです」
「……そうですか」
「あなたも早く休んだ方がいいと思いますよ」
「わかってますよ」
心なしか素直に引き下がったように思える。
そのまま立ち上がろうとした時、腕を掴まれる。
「……なんですか」
「……」
茨は何も言わず、ただ弓弦の腕を掴んだままだった。
「……あんたのことだから平気だと思いますけど、今日みたいな無茶はしないでほしいんですよね」
呟かれた声は誤魔化されるみたいに小さくて、でも弓弦の耳にははっきりと聞こえた。
茨が何度もこんな姿を見せるのが珍しくて、どう反応するのが正解なのかわからない。
茨の指先は離れなかった。それどころか、ぐいと引っ張られた。
その先に茨の胸があった。また、鼓動の音がする。
「何を……」
「……」
「……何か言ったらどうなんです」
「…………」
「ちょっと茨、黙らないでください」
「…………」
「……もう、なんなんですか……」
「……あんたがそんな調子だと俺の調子も狂うんです」
素直すぎるくらいの茨の言葉に、弓弦はたじろいだ。
「今日だけじゃなくて……これからも、ずっと」
頭上からそっと告げられた、そのトーンに反発をおぼえて、弓弦は茨の腕を押し返した。
「……余計な心配は結構です。そんなしおらしい言い方をするあなたこそ……酔ってらっしゃいますよね」
なんとなく顔が見れなくて、早口で突き放すように言う。
「酔ってません」
「嘘おっしゃい」
「酔ってない、」
茨は少し大きな声を出して、そのまま頭を萎れさせるようにもたげた。
完全に酔っている。先ほどの様子と打って変わってまるで駄々をこねる子どもだ。
「ほら。早くシャワーを浴びて休んでください」
「うるさいですね……それに、心配とかじゃないです」
茨は勢いよく顔を上げると弓弦を見つめて言った。
レンズ越しに浅葱色の瞳が熱っぽく弓弦の目を射抜く。それがあまりにまっすぐで、一瞬心音が強く胸を叩いた。
「心配とか、そういうんじゃないんです。俺はただ、」
茨は一度口をつぐみ、それから、
「あんたを殺すのは、俺ですから。それまで腑抜けてもらっては困りますので」
そう言ってバスルームの方へ歩いていった。
優しくしてみたりべたべたと触ってきたり、忙しなく姿を変える、酒でふやけた茨がまるでわからない。
しかし説明がつかないのは弓弦も同じだった。さっきからずっと、わけもわからなく胸が熱い。
――これからもずっと。あんたを殺すのは俺ですから。
告げられた言葉が、火照った身体の中をぐるぐると回って、らしくなく弓弦の鼓動を少し速めている。
それらを酔いのせいにして、バスルームから帰ってきた茨になんと言い返してやろうか、少し重たい頭で考えることにした。
薄暗い部屋の中ひとつしかないベッドに幼い頃の自分たちのまぼろしを見る。