!!軸/初出・2022年
診断メーカー「こんなお話いかがですか」より、『「今世紀最大の一大事だ」で始まり「何か言いたかったけれど、言葉がうまく出なかった」で終わる話』です。
突然ラッキースケベ体質になって余裕がない話です。
今世紀最大の一大事だ、と茨はやけに冴える頭で思った。目の前には憎たらしい某……いや、名前くらい明かそう。伏見弓弦。の、股ぐらがある。
上質なスラックスは顔に押し付けられても柔らかい。……柔らかいのは……考えるのはよそう。
(……え? なんですかこの状況)
本当にこれはどういう状況なのか。スマホでメールを確認しながら廊下を歩いていたら、運悪く出会い頭にぶつかって、更に運悪くその相手が忌々しいあの男で、そいつがなぜか俺の顔面に跨るような姿勢ですっ転んだ。眼鏡が吹っ飛んで、鼻根がじんと痛む。
「……ちょっと、さっさと退いてください」
とりあえずそう声をかけると頭の上の方から「い、言われなくてもあなたと密着していたくなどありません」と声が飛んできた。
弓弦が身体を起こす。やっと解放された。眼鏡に異常がないか確かめてかけ直す。膝を払って立ち上がってスマホを拾う。
しかしどうにも違和感が拭えない。いつもならすぐに立ち上がるって嫌味の一つでも飛ばしてくる男がぼうっと座り込んだままだ。まさかとは思うが、どこか捻ったりでもしたのだろうか。
「ちょっと、大丈夫ですか」
心配になって肩に手を置くと、
「……ッ!?」
変な声を上げて飛び退かれる。
「ど、どうしました」
「さ、触らないでください」
太腿を擦り合わせてこちらを睨んでくる顔にはどこか覇気がない。
「……はぁ。俺はもう行きますから」
なんだかよくわからないけど弱っているようだ。普段見れない姿に少しだけ胸がすく思いになって踵を返そうとすると、「あなたのせいですから」と捨て台詞(?)が飛んできた。なんなんだ。
それから事務所の定例会議に出席する。特に大きな議事もなく、滞りなくルーチンワークのように進む会議は退屈だった。ぼんやりし出した頭で会議室を後にすると、事務所の待合室にぴんと背筋を伸ばしたシルエットがある。
「げ」
伏見弓弦だった。何故ここにいるのか、とかまたかよ、とか様々な言葉が浮かぶが、とびきりの笑顔で押し殺して敬礼する。
「やあやあ、弓弦でしたか!ここは貴方の来るような場所ではありませんが、事務所を間違えておいででは?」
「……」
嫌味にじろりと睨めつける視線で応答された。無言で角形封筒を突き出される。
「なんですか? 事務書類ならES内郵便があるでしょう」
「英智様の気まぐれです。わたくしが、あなたに直接、必ず届けるようにと」
にこにこしながら言いつける英智の姿が思い浮かぶ。いい気味だが、自分と弓弦の仲を面白がる悪癖はなんとかならないものか。
「では。お渡ししましたから」
弓弦が足早に立ち去ろうとする。と、本当に何故なのか――普段の彼ならば絶対にこんな失態は犯さないはずだが――足元で動いていたロボット掃除機を前につんのめった。
「!」
「えっ、」
思わず腕を引く。弓弦は茨の胸元に飛び込むようにして倒れ込んできた。
「……」
「……」
異なる体温と鼓動が伝わってくる。それはすぐに自分のものと混ざり合い、境界が曖昧になっていく。
至近距離にある顔と見つめ合うこと数秒。先に口を開いたのは弓弦の方だった。
「……あなた、わざとやっていませんか」
「……こちらの台詞ですが」
弓弦はぱっと離れて、義務的に「失礼しました」と言って顔を逸らす。足早に事務所を出て行くのを、同じ姿勢のまま呆然と見送った。
嵐のような時間だった。弓弦の香りがまだ残っている気がして、心臓がいつもより脈打っていた。
「いや……なんなんだよ」
仕事を一段落つけて、少し散漫になった頭を冷やそうと席を立った。自販機でコーヒーを買って、なんとなく屋上庭園に向かう。扉を開けようとすると少し早いタイミングで向こうから開けられてたたらを踏んだ。外から目が開けていられないほどの強い風が吹き込んで、一瞬目を強く瞑る。
今日一日で何度も顔を合わせた男が少し驚いた表情で立っている。
「……なんなんですか!」
思わず声を荒げた。今日は弓弦と何故かよく会う。しかもイレギュラーなハプニングばかり起きている。文句すら言いたくて、苛立ちながら横をすり抜けようとする。
中に入ろうとしていたはずの弓弦がむっとした表情で着いてくる。こいつも同じ気持ちなのかもしれない。またいつものように言い合いになることを予想して、休憩に来たはずの心持ちがすっかり元に戻ってしまった。
「さっきからなんなんですか。今日のあんた、おかしいですよ」
「それはこちらの台詞です。あなたこそ、その腑抜けた態度……」
「腑抜けてるのはあんたでしょう」
「あなたが手を出してくるから事が大きくなるんです。余計なお気遣いは結構ですから」
「はあ!?」
いつもならスルーできるはずの言葉にカチンと来てしまうほど今の自分には余裕がなかった。思わず大きな声を出して振り返ると、思っていたより近くに弓弦の顔があった。
雲の流れが早くて、強く風が吹くと、三センチの差はあっという間になくなる。
風が止むと、唇に何かが触れた感触だけが残った。
呆然と顔を見合わせる。それは永遠にも思えた。
「痛っ!?」
突然足を踏まれる。弓弦の唇がわなわなと震えて、耳が赤く染まっているのが見える。
自分もきっと同じような表情をしている気がして、何か言いたかったけれど、言葉がうまく出なかった。